ドラッカーの部屋

(14)ポスト資本主義社会

(14)ポスト資本主義社会

ドラッカー名著集8

資本主義社会の次に来るのは何か。
序 章:歴史の転換期
第1部:社会
 第1章:資本主義社会から知識社会へ
 第2章:組織社会の到来
 第3章:資本と労働の未来
 第4章:生産性
 第5章:組織の社会的責任
第2部:政治
 第6章:国民国家からメガステイトへ
 第7章:グローバリズム、リージョナリズム、トライバリズム
 第8章:政府の再建
 第9章:社会セクターによる市民性の回復
第3部:知識
 第10章:知識の経済学
 第11章:教育の経済学
 第12章:教養ある人間
ドラッカーの言葉該当ページと独り言
しかし同時に、他のいろいろな面で、日本は新しく生じてきたニーズに応える体制になっていない。例えば教育の分野では、高学歴者のための継続学習機関として大学を発展させる必要が十分認識されていない。日本の高等教育は、いまだに成人前かつ就職前の若者の教育に限定されている。そのような体制は21世紀のものではない。19世紀のものである。日本語版へのまえがきP3
最近、社会人向けのプログラムが多くなっているようだが、実は、文科省の旗振りに対応しているだけだという話もある。まだ、本当の意味で、この指摘は活かされていないのでは?
そして次の点も重要である。それは、現実に支配力をもつ資源、最終決定を下しうる生産要素は、資本でも土地でも労働でもなく、知識だと言うことである。ポスト資本主義社会における支配的な階級は、資本家とプロレタリア階級ではなく、知識労働者とサービス労働者である。P8
サービス労働者であるという見方はなるほどと思わせてくれる。
他方、ポスト資本主義社会における社会的な課題は、ポスト資本主義社会の第二の階級たる人々、すなわちサービス労働者の尊厳に関わる問題である。サービス労働者には、一般に、知識労働者となるうえで必要な教育が欠けている。しかしあらゆる先進国において、しかも最も進んだ先進国においてさえ、多数派は彼らサービス労働者である。P10
日本においては、それほど教育が欠けているということは無いのではないか?とも思うが、最近はどうだろう。
ここでいう社会の二分とは、知識人と組織人への二分である。前者は言葉と思想に関わりをもち、後者は人と仕事に関わりをもつ。実にこの二分を乗り越えた新たな統合こそ、ポスト資本主義社会における哲学的および教育的な課題となる。P11
知識人が組織のなかで組織人になるものだと単純に考えていたが、確かに乗り越える壁があるかもしれない。
政治理論や憲法は、いまだに国民国家しか知らない。国民国家は、この100年間、確実に力を増大させ、より支配的な存在となってきた。P13
国民国家だけしか知らないという問題意識すら持ったことがない。
このように、東西両洋において知識が意味するものについては二派の対立があったものの、知識が意味しないものについては完全な一致があった。知識は行為に関わるものではなかった。効用ではなかった。効用を与えるものは知識ではなく、ギリシャ語にいうテクネー(技能)だった。P34
知識と技能とは補完しあうものなのか?それともそれぞれは独立したものなのか。
確かに暗黙知は、技能のなかにあるような気がする。それは知識とはなっていない。
テイラーは、労働者がより多くの収入を得られるようにするために、その生産性の向上に取り組んだ。企業のための効率の向上ではなかった。資本家の利益のためでもなかった。彼は生涯、生産性向上の果実を享受すべき者は、資本家ではなく労働者であるとの考えを貫いた。P45
ドラッカーがテイラーを評価していることは知っていたが、ここまで労働者志向であったことは知らなかった。
その上、日本の労使関係を評価している。
生産性革命は成果をあげた。その結果、今日では非肉体労働者の生産性が問題となった。知識に知識を応用することが必要となった。P54
今でも知識労働者の生産性革命が求められている。
組織とは、共通の目的のために働く専門能力をもつ者からなる人間集団である。P64
共通目的、貢献意欲、コミュニケーションを組織の基本原理と言ったのはバーナードだった。
社会やコミュニティや家族は「存在」する。組織は「行動」する。P65
まさしく!
個々の専門知識はそれだけでは不毛である。結合して、初めて生産的となる。これを可能にすることが組織の機能であり、存在理由であり、役割である。P67
組織こそが、強みを成果に繋げるものだ。
組織の成果は、常に組織の外部にある。社会やコミュニティや家族は自己完結的であって、自らのために存在する。これに対し組織は、外部に成果を生み出すために存在する。P73
成果は外部にあるということを忘れがちだ。内向きで行動しようとしていないか?
ほとんどの組織において、個人の貢献は組織としての使命に呑み込まれ、消えて見えなくなる。P74
え?と思った。が、次を見よ。
ということは、組織の中の人間はすべて、それなくしては組織としての成果が生まれないような死活的に重要な貢献を行っているということである。しかしなおかつ、彼らは独力では、いかなる成果も生み出せない。P74
見えなくなってしまっても、間違いなく貢献している。そして、絶対的に重要だ。
社会やコミュニティや家族は、いずれも基本的には維持機関である。それらは安定を求め、変化を阻止し、あるいは少なくとも変化を減速しようとする。これに対し、ポスト資本主義社会における組織は変革機関である。P77
うーむ。そうなのかもしれない。維持機関と変革機関。人は相反する機能を持つ機関を兼務することによって生きているのだ。
先進国にとって、成功を約束する唯一の長期的視点に立つ政策は、製造業の基盤を肉体労働力から知識に転換することである。P93
安い労働力を求めて途上国に製造拠点を作る「グローバル企業」とは方向性を誤っているのではないか?
しかし、年金基金資本主義そのものは、先進国経済の普遍的な所有形態となっていく。これは先進国の今日の人口構造ゆえに避けられない道である。年金基金資本主義は、かつての資本主義とは似ても似つかぬものとなる。また、いかなる社会主義者が描いた社会主義経済とも似つかぬものとなる。P97
年金基金資本主義?この言葉は今もキーワードになっているのか?
長期的な成果は、短期的な成果の累積ではない。長期的な成果は、短期的な目標と長期的な目標を均衡させることによって得られる。P101
短期経営計画・中期経営計画・長期経営計画は、すべて期間の違いとなっているのでは?自分の会社の長期と短期を見比べてみたらどうだろう。自分の知っている会社は、長期の到達目標に合わせた短期計画を作っている。まさに、ドラッカーが否定していることだ。
1930年代の専門経営者は、短期長期双方の均衡ある成果、および企業活動に各様の関わりをもつ多様な利害関係者間における均衡ある利益の実現を図りつつ、マネジメントする者とされた。実は、この認識こそ正しいものだった。P101
現在では認識のみならず、その方法を知っているということをドラッカーは言う。我々はそれを学べばいいのだ。
実は、それらの仕事に限らず、知識労働者とサービス労働者という新しく中心的な存在となってきた労働力によって行われる仕事はすべて、生産性を向上させるために新しい考え方と新しい設計が必要とされる。P107
その新しい考え方と新しい設計は?「この仕事から期待すべきものは何か?」という問いが投げられている。
知識労働やサービス労働では、いかに仕事を組織するか、仕事とその流れに適した組織はいかなるものかを決定することが必要となる。P108
ここでチーム運営という考え方が明確に繋がると思う。
第一のチームは、野球型チームあるいは病院の手術チームである。この種のチームでは、各メンバーが形としてチームをなしているが、全員が一体化して動くことはない。P109
チームには3つの種類があると言っている。その一つめだ。
反復的な仕事やルールが固定した仕事では、野球型チームが理想である。事実、大量にものを作ったり運んだりする仕事、すなわち近代的大量生産が組織され、かつ成果をあげているのは、この野球型チームによってである。P110
大規模な製造業などで、実業団の野球チームを持ち、営業に野球出身(体育会)を多く配したのは偶然ではない。
第二のチームは、サッカー型チームあるいはオーケストラのチームである。夜中の二時に心臓発作の病人のもとに駆けつける病院の救急チームである。P110
ポジションは固定的だが、野球型は交代しやすい。サッカー型は連係プレーが中心のため、チームを固定化して練習する必要がある。
このサッカー型のチームには、監督や指揮者が必要である。彼らの言葉が法となる。また、このチームには楽譜が必要である。そして、よりよい仕事のためには練習が必要である。P110
指揮者は、楽譜を超えた方針を示し、それを指揮するという意味で、リーダーである。
第三のチームは、テニスのダブルス型チームである。少数編成のジャズ・バンドであり、四、五人の最高幹部からなるアメリカ企業のトップマネジメントである。P111
ドラッカーはこのダブルス型チームを最強であると断言している。しかし、実際に仕事組織を考える際に、イメージしづらいと思う。
チームのメンバーはポジションが固定しておらず、優先すべきポジションをもつに過ぎない。彼らは互いの領域をカバーし、同時に強みと弱みを調整し合う。P111
ポジションが固定していないこと、たがいが頻繁に入れ替わりサポートしあうことを大規模組織に広げるとラグビー型になる。これが我が原点にある。
野球型チームでは、そのメンバーは自らの仕事に必要な情報を状況から得る。他のメンバーが得る情報とは関係なく、それぞれが状況から情報を得る。P112
一つ一つのポジションが専門家であるから、最善の判断は手元から得るということなのだろう。バッターは誰かに次の球種を指定してもらうわけにはいかない。
これに対し、サッカー型チームでは、メンバーは主として監督や指揮者から情報を得る。監督や指揮者がチームとしての楽譜を管理する。P112
専門的なリーダーがいるチームであると解していいだろうか。ここの読解に苦慮した。
ところがテニスのダブルス型チームでは、メンバーは主として他のメンバーから情報を得る。情報技術の変化、そして私が情報型組織と呼ぶものへの移行が大規模な組織改革を必然とする理由が、ここにある。P112
メンバーの成果を他のメンバーが活用することでチーム貢献となり、チームの成果を生み出す。
雑事の排除こそが、知識労働とサービス労働の生産性向上の最高の方途である。P114
成果に貢献しない雑事を選別し、意識的に排除すること。意識しないとつい雑事こそが仕事かと思ってしまうものだ。
したがって、知識労働者とサービス労働者のあらゆる活動について「本来の仕事か」「本来の仕事に必要か」「本来の仕事に役立つか」「本来の仕事がやりやすくなるか」を問わなければならない。答えがノーならば、そのような活動は仕事ではなく雑事にすぎない。P115
問いを続けることが重要だと思う。
組織はジャズ・バンドのように組織される。そこではチーム内のリーダーが、地位に関係なく任務ごとに交替していく。知識労働と知識労働者の世界から地位という言葉そのものが姿を消し、任務という言葉に代わっていく。P119
すべてのメンバーが時と場合によってリーダーになり、サポーターとなる。ラグビー型の基本だ。
サービス労働のアウトソーシングは、経済的な観点から必要なだけではない。サービス労働者に対し、機会と収入と尊厳を与えるために必要とされる。P121
現在、試行錯誤の段階に入ったと言えるのではないか。
これら組織のすべてが自己中心的でなければならない。そうして初めて、それらの組織が社会の抱える課題を解決していくことになる。しかも一つの組織が解決すべき課題は一つでなければならない。関心をもつべき課題さえ一つでなければならない。P127
自己中心的とは、自分の仕事が社会で最も重要な仕事であるという信念をもって、行動することをいう。
しかし、この問題に関わる最も重要な原則は、組織はそのよって立つ基盤を権力から責任に変えなければならないということである。責任を基盤とすることとこそ、ポスト資本主義社会における組織の原則である。P136
権力から責任へ。
マネジメントの人間のほとんどが、マネジメントなど行っていなかった。彼らは命令を上から下へ、情報を下から上へ伝えているにすぎなかった。したがって、情報が容易に手に入るようになったとき、彼らは余剰人員となった。P138
今後ますます、情報のシステム化が発達すれば、中間管理職の中抜きが起こるはずだ。
知識を基盤とする組織においては、あらゆる者が自らの目標、貢献、行動について責任を負う。ということは、組織に働く者はすべて、自らの目標と貢献について徹底的に考え、責任を負わなければならないということである。P139
形だけの目標管理は、どんなにやっても何も変わらない。
そして今世紀の2つの世界大戦が、国民国家を租税国家に変えた。第一次世界大戦前までは、いかなる政府も、わずかしか国民から取り上げることができなかった。国民所得の5%から6%が上限だった。P160
租税国家という歴史的な見方は、なるほどなあと思わせられる。
こうして1960年には、先進国ではメガステイトが、あらゆる意味において政治の現実となった。国家は福祉国家、経済国家、租税国家、冷戦国家となった。
唯一の例外が日本だった。
P164
ドラッカーは事ある毎に日本の例外的な歴史を評価している。東日本震災後もこの例外的な強みを発揮できると信じたい。
経済の生産性が高ければ所得の平等性は高まり、低ければ不平等性が高まる。パレートの法則によれば、税制がこれを変えることはない。ところが租税国家の支持者は、税制は所得分配を効率的かつ恒久的に変えることができると主張した。しかし、過去40年間におけるすべての経験が、この主張の誤りを照明した。P167
パレートは、社会階層間の所得分配は、社会の文化と経済の生産性のみによって決定されると言った。
しかも最悪の状況として、メガステイトはばらまき国家となった。予算編成が歳出からスタートするならば、徴税に節度がなくなる。歳出は政治家が票を買うための手段となる。P170
2010年から2011年の民主党政権誕生はこれを証明しただけに見えてくる。マニュフェストと言うバラマキで票を買った!
民主主義国家は、公選された国民の代表が、その第一の仕事として、どん欲な政府から選挙民を守ってくれるとの確信があって機能する。したがって、ばらまき国家は自由社会の基盤を浸食する。国民の金で票を買うことは、市民性の否定である。P171
どん欲な政府から選挙民を守ってくれる政治家、か。
しかし、環境にとって最大の脅威は、製紙工場の排水、下水から海洋へ吐き出される廃棄物、農場から流れ出る農薬や肥料がもたらす地域的な汚染ではない。最大の脅威は、人類のすべてが依拠している環境の破壊である。すなわち、人類の生息地である大地である。地球の肺臓ともいうべき熱帯雨林である。海洋である。水資源であり、空気である。しかも、環境の保護と、人口が急増する途上国の産業需要とのバランスを早急に図らなければならない。P185
ドラッカーが地球環境についてここまで見ているとは思わなかった。
環境に次ぐ第二の分野は、私兵の復活の阻止、すなわちテロの根絶である。そのためのグローパルな行動と機関が必要とされる。P186
そして、テロ対策も。
ちなみに、第三がグローバルな軍備管理。第四がグローバルな人権管理機関を提唱している。
それは、もはやリージョナリズムの流れは覆しえないということである。そして、避けられないということである。P192
確かにアジアでも不可避だと思える。
グローバリズムとリージョナリズムは、国民国家の主権に対する外部からの挑戦である。これに対してトライバリズム(部族主義)は、国民国家の主権をゆるがす。国民国家の統合力を吸い取る。まったくのところ、トライバリズムは国家に取って代わろうとさえする。P194
今、世界で問題になっているのは、このトライバリズムと言っていいだろう。
しかし、トライバリズムへの回帰の主たる理由は、政治的なものではない。経済的なものでもない。それは存在論的なものである。グローバル化する世界で、人々はルーツ、すなわちコミュニティを求めている。P196
存在論と言われればまさにその通りで、かつ、理屈で割り切れるものではない。
第一に、機能していないもの、機能しなかったもの、有益性は貢献能力を失ったものを廃棄することである。
第二に、機能するもの、成果を生み出すもの、組織の能力を高めるものを行うことである。現実に成功しているものを、さらに行うことである。
第三に、半ば成功し、半ば失敗したものを分析することである。
P204
再建に必要なものとして三つ挙げられている。
難しいけれど、確かにやらなければいけない。
個人においても同様かもしれない。
再建のためには、成果を生まなかったものはすべて廃棄し、成果を生んだものはすべて、さらに行わなければならない。P204
上記三つのまとめ
地域における軍事バランスの維持などという理由はまったくのいかさまである。過去40年間、軍事援助が地域を安定させた例はない。軍備競争を激化させただけである。P206
切り捨てている。この問題は違った見方をさせてくれる。
そもそも軍事援助を廃棄したとしても、痛手を受けるのは軍需産業だけではないか。P207
まさしく、そうかもしれない。
これからは社会的なニーズが二つの分野で高まる。一つは、伝統的に慈善としてとらえられてきた救済サービスの分野である。貧しい人、障害のある人、寄る辺なき人、害を受けた人を助けることである。もう一つは、コミュニティと人に働きかける社会サービスの分野である。特にこの第二の分野において、社会的なニーズが今後急速に高まる。P214
これは現在の流れを示してくれている。
しかし知識経済にあっては、経済をきていするものは消費でも投資でもない。P233
既存の経済は消費や投資によって規定されるが、知識経済は全く違う。
第一に、生産工程、製品、サービスの絶えざる向上への知識の応用である。これを最もよく行っている日本ではカイゼンと呼ばれているものである。第二に知識の展開である。すなわち、全く新しい異なる生産工程、製品、サービスへの既存の知識の応用である。第三にイノベーションである。P233
知識の経済活動への応用のまとめ
本来教師の果たすべき役割は教えることであって、動機づけし、指示し、激励することである。P250
教育問題は教師問題でもある。根本的な改革が必要だと思う。
いま必要とされていることは、学校の本来の目的を再確認することである。学校の目的は、社会の改革でもなければ社会の改善でもない。個々人の学習である。P252
学校の得意なことは何か?目的は何か?
人は人生のどの段階にあろうとも、正規に教育を受け、知識労働への資格を得ることができなければならない。そして社会は、資格さえあれば、年齢に関わりなく、いかなる仕事にも人を受け入れるようにならなければならない。P260
学生の就活問題も受け入れる企業が変わらなければいけない。既に、先進的な企業は変わりつつある。
知識は人の中にある。P265
シンプルかつ重大な言葉だと思う。
WEBにあるのでも、組織にあるのでもない。