94.欲求段階説

【主な登場人物】
ジン(北野):主人公 サラリーマンの傍ら経営コンサルタントをしている
黒沢:居酒屋みやびの大将 酒と和食へのこだわりが強み
由美:居酒屋みやびの看板娘 黒沢の姪
雄二(鳶野):ジンの幼なじみ ジンの応援で起業を目指している

 「テーラーの科学的管理法」→「人間関係論」と話は展開してきた。
 
 とはいえ、みやびのちゃんこ鍋が始まれば、話の流れはすっかり忘れて具の取り合いになる。
 
 大将がうれしそうに目を細めているのに気づいた。

「ジンさんと鳶野さんが鍋の具を取り合っているのが、いつもうれしくてね。言っちゃ悪いけど、子供みたいに見えますよ。なあ、由美っペもそう思わないか」

「こんなに身体の大きい子供がいるのかなあ、なんてね。仲いいわよね。うらやましいくらい」

「げっ。大将も由美もなんてこと言うんだ。俺が、ジンと出来てるみたいじゃないか」

「雄二のその言い方が誤解を招くんだ。あ、タラの切り身見つけた」

「おい。さっきも食ったろうが。スキを突くというのは男じゃねえぞ」

「鳶野さん。タラを特別にサービスしますから、カウンターを割らないでくださいよね」

「大将、申し訳ないです。雄二なら本当にやりかねませんからね」

「ま、大将の心遣いに感謝して、大人しくするよ」

 いつもの一騒ぎだ。
 菊正宗の樽酒のお代わりをしようとすると、日本酒用冷蔵庫に『阿櫻』があるのを見つけた。

「大将。阿櫻が入ってますね」

「ジンさんに見つかりましたか。今年の寒仕込み純米原酒ですよ。開けますか」

「もちろん」

 秋田県横手の地酒だ。秋田にこだわって、秋田産の酒米に加え、酵母も秋田で育てたものを使ったしっかりした酒だ。

「うまい。後味がすっきり抜けるのがいいですね」

「大将やジンとつきあって良かったのは、本当にうまい酒が飲めることだな。こりゃ、うまいや」

「2人とも、本当に幸せそう。でも、人間関係論が途中になってるんだけどなあ」

「おいおい由美。幸せな気分なんだから、居酒屋関係論にしとこうや。ダメ・・・か」

 雄二の嘆願も、由美ちゃんの学生の表情には効かなかった。

「了解。じゃ、阿櫻をお代わりして、人間関係論がどう展開していったかを話しておくね」

 由美ちゃんが大きく頷き、雄二も渋々阿櫻をすすっている。
 
「人間関係論が、人の感情に配慮し過ぎて、あまり具体的な効果が見られなかったという話はしたよね。この反省から出てきた理論の一つが、モチベーション理論だったんだ。つまり、仕事に対する意欲を積極的に高めるという方向に進み出した。その基礎になったのが、有名なマズローの欲求段階説だ」

「あ、そうか。5段階だったかしら。ええっと、生理的欲求・安全の欲求・社会的欲求、後は何だったかしら。最後は、自己実現よね」

「あ、あれね。社会的欲求ってのは、所属の欲求だったから、次は、人に認められたいだったろ。えーっと、自我だったか」

「2人合わせて大正解。高校くらいでやったかな。復習にしては、良く出てきたな。生理的な欲求→安全の欲求→社会的欲求→自我の欲求→自己実現欲求と順番に満たされることで上位の欲求へ向かっていくという理論だったね」

「なんか、本当に学校みたいになってきたな。でも、この欲求が段階になっているという理論から経営にどう関係してくるんだ?」

「この理論は、あくまで仮説だからこれ自体で何か行動が起こるわけではないな。ただ、一つの検証としては、たとえば、

生理的欲求:賃金を得ることで満たされる
安全の欲求:雇用が保障されたり、労働保険で満たされる
社会的欲求:役割が与えられ、責任を意識することで満たされる
自我の欲求:成果を認められ、昇進などで満たされる
自己実現欲求:新事業開発を自ら行うことで満たされる

と言うように上位の欲求段階へ進めるような企業の施策を行うことでモチベーションが継続するという感覚はあると思うな」

「確かに、就職が出来なければ基礎的な欲求が満たされないし、就職できれば、次に給料が上がらないとやる気が起きないだろうし、同期で自分だけ昇進できなければやっぱり落ち込むよな」

「そうよね。普通に考えればいいんだけど、じゃあ、貧乏で食べるものもない状況ですごい美術作品を書き上げた人とか、まったく孤立して、誰も認めてくれていないけれど、難しい理論に取り組み続けた人なんかはどう考えたらいいの」

「由美ちゃんの疑問が、この理論が仮説でしかないという人と同じ反証になっているんだろうね。必ずしも順番に進んでいくわけではないというのも事実だよね」

「そうなると、この話はまだ先があるってことね」

「そう言うことだけど、雄二が眠そうになってきたから、続きは次にしよう。由美ちゃんのことだから、しっかり次回用にメモしてると思うけど」

「もちろんよ。次はいつ?」

「おいおい、由美っペ。そんなことばっかり言ってると、ジンさんも鳶野さんも来づらくなっちまうぞ。2人とも飲みに来てるんだから」

「由美ちゃん。この辺は、実務と離れているから、また、休みの日にでも勉強会しようか。桜もそろそろだから、花見の前にうちに集まってやってもいいよ」

 突然、雄二も目が覚めたようだ。

「おお、そうだ。花見を忘れていたな。ジンのマンションの近くの堤防の桜もそろそろだろう。今度の土・日が最高だ」

 去年の花見の頃にも集まったんだが、そう考えると一年が短く感じられるようになってきた。

(続く)

《1Point》
・マズローの欲求段階説
 アブラハム・マズローの提唱した理論。米国の心理学者。
 
 この説はあまりにも有名なので、改めて説明はしませんが、自己実現の考え方が後世に大きな影響を与えたと思います。