82.大忘年会

 一人暮らしが長くなると部屋の掃除をしなくなってくる。せめて、年末の大掃除くらい、と朝から始めたのだ。
 
 不思議なもので、掃除を始めるとそれまで気づかなかった汚れが気になり出す。掃除の対象が増えてしまい、なかなか次に進めなくなってくるのだ。
 
 おかげで、ダイニングとリビングを終えた頃には暗くなってきていた。
 
 慌てて軽くシャワーを浴び、ジーパンにラグジャー、ダウンジャケットを引っかけて部屋を飛び出した。
 
 年末の買い出し客でまだ賑わっている商店街を抜けて、いつもの赤提灯を目指した。今夜は常連客貸し切りの忘年会なのだ。
 
 いつも出ている縄のれんも仕舞われていた。年末の挨拶と「貸し切り」の文字が貼られている引き戸を開けた。

「ジンさん、遅い遅い。みんな集まっているよ」

 大将がカウンターから出てきていた。

「ええ?まだ時間前なのに、みんな早すぎないですか?」と返しながら店の中に一歩踏み入れると知った顔ばかりが振り返っている。

「みんな待ちきれないんだから早く早く」

 由美ちゃんも既に座り込んで手を振っている。
 みんなが指し示す空いた椅子に座ると、ハチマキと前掛けを外した大将が立ち上がった。

「全員揃いましたので、始めたいと思います。皆さん、一年間みやびをご贔屓いただきありがとうございました。今年も何とかやりきることができました。今日は、恒例の忘年会でほとんどの皆さんが顔なじみだと思います。是非、一年間を振り返る一夜としてください。それでは、今年1年の感謝と来年の更なる飛躍に向けて乾杯いたします。ご唱和願います」

 カンパーイとそれぞれがまわりの人とグラスや杯を合わせ、落ち着いた頃誰かから拍手が伝播し歓声に変わった。
 
 テーブルの上には、まだ火をつけていないちゃんこ鍋が準備され、銘々にはみやび特製お通し盛り合わせが置かれている。持ち寄りのつまみや酒もカウンターに溢れている。
 
 由美ちゃんの隣には長井沙知がニコニコと座っていた。

「沙知さん、いつ帰って来たんですか」

「クリスマス休暇に帰国したんです。すぐ青森へ行ったので連絡し損なってました。すいません」

 隣のテーブルに長井英雄・みゆき夫妻が座っていた。

「ジンさん。お久しぶりですねえ」

「去年、大将や由美ちゃんと鍋を食べに行って以来ですね。青森も随分寒くなったでしょうね」

「出がけに大雪が降ってどうなるかと思いました。この年末年始は誠二さんの家にお世話になりますので、帰るのは3が日が過ぎた頃ですのでどうなっているか」

 元ドラックストアチェーン会長の長井誠二氏も一緒に飲んでいた。
 
「ジンさん、私はもっと久しぶりですね。事件があって以来でしたかね。あの時は本当にお世話になりました」

「会長も、あ、いや、元会長も随分にこやかになられましたね」

 昔、長井誠二氏の顧問兼会計士だった雄二が挨拶に回ってきた。

「いやー、鳶野さんも久しぶりです。先ほど沙知から会社を興されたと聞きましたよ。水くさいですねえ。一度じっくり話を聞かせてください。今はベンチャー企業のエンジェル何ぞをしていますので、鳶野さんの事業なら是非支援したいのでね」

「え、会長・・・そりゃあ、是非お願いします」

「雄二、こりゃ大変なことになったな。誠二さんに支援されて上場していない会社は無いと言うからな」

 長井誠二氏は、自分でも言っていたように、ベンチャー企業を支援するエンジェル投資家として活躍していた。エンジェルとは、ベンチャーキャピタルなどとは違い、自らの資金を提供するため、個人差が大きいが惚れ込まれれば通常考えられないような出資をしてくれることもある。
 
 さっきから挨拶できないでいたわが社の有森社長が誠二氏の元に挨拶に来た。
 
「挨拶が遅れました。ご無沙汰しております。有鉄物産の有森です」

「やあやあ、有森さん。こちらからご挨拶しなければいけないのに失礼しました。『理の経営者』で有名な有森社長にお会いできるなんて思いませんでした」

「そう言えば、昔、『情の経営者』の長井さんと対比されたことがありましたな。懐かしい話ですが」

 大義建設工業の義本社長も目を丸くして挨拶に来た。

「そうでした。どちらかでお会いしたと思っていましたが、商工会議所の互礼会でしたね。情の経営者と理の経営者が一緒に壇上に上がり注目を浴びたことがありましたね。大義建設の義本です」

 大義建設に努める近藤さんも一緒になって立ち上がっていた。

「ジンさん、沙知。この店も大変な社交場になってるわね」

 由美ちゃんがうれしそうにつぶやいた。

「由美さん、私もこんなチャンス無いと思ったわ。でも、これって、鳶野さんやジンさんのおかげなのよね。改めて、ありがとうございました」

 沙知さんが、いきなり立ち上がって最敬礼をしてくれた。それがみんなに伝播してしまった。
 
「そうだ、そうだ。北野君や鳶野君のおかげで我々はここにあるのかもしれない。沙知の言うとおりだなあ。いやー、改めてお礼するよ」

 照れくさいやらで雄二と立ちつくすことになってしまった。

 大将が「獺祭」や「田酒」、「四季桜」、「菊姫」、「十四代」などの秘蔵酒や持参酒を振る舞い、鍋に火を入れ始める頃になると、挨拶から議論に変わりつつあった。
 
 由美ちゃんと沙知がなにやらノートをのぞき込みながら話し込んでいた。
 雄二が気づいて声をかけた。

「紅二点が何を企んでいるんだ?俺の資産を乗っ取る気か」

 笑いを誘った言葉に、由美ちゃんが反応した。

「そうねえ。長井誠二さんが支援に乗り出すなら、これまでの私たちの応援に対して十分な株式の無償提供を要望するわ。ね、沙知」

 沙知に向けて舌を出した。

「実はね。これまで、ジンさんにいろいろ教わったでしょ。そのノートを沙知に見せていたの。鳶野さんも覚えているわよね」

「お、おおー。もちろんだ。知識だけでは経営はできないが、知らなければならないこともあるとジンには何度も言われたからな」

「じゃあ、これらについて簡単に説明してみて」

 A4のコピー用紙に印刷してあるのは、用語集のようだった。
 俺も覗いてみた。見出しだけがピックアップしていある。見覚えのある用語ばかりだ。
 
「これまでのテーマよ。鳶野さん、いかが?」

「由美、参った、参った。こりゃ無理だよ」

「由美ちゃん、こりゃ懐かしいね。でも、それ以上にそれぞれの背景を思い出すとこれまで本当に貢献できたのだろうかと心配になるね」

「そこがジンさんの心配性なところね。みんな自分の役割に責任を持っているから大丈夫よ。沙知もあと1年でMBAを取って、凱旋帰国すると思うからそれまで私たちもがんばらなければね」

(続く)

【これまでの登場人物】
ジン(北野仁):主人公 サラリーマンの傍ら経営コンサルタントをしている
黒沢:居酒屋みやびの大将 酒と和食へのこだわりが強み
清田由美:居酒屋みやびの看板娘 黒沢の姪
鳶野雄二:ジンの幼なじみ ジンの応援で起業を目指している
大森:みやびの常連 地元商店街の役員
近藤:みやびの常連 建設会社大義建設工業顧問
有森英二:ジンの勤める有鉄物産社長
山野綾:ジンの営業部の部下
木村輝明:ジンの同期 官需営業課員
吉田課長:木村の上司 官需営業課長
義本社長:大義建設工業社長
長井誠二:元ドラックストア経営者、現エンジェル投資家、長井沙知の育ての親
長井英雄:青森で居酒屋経営、黒沢の師匠
長井みゆき:英雄の妻
長井沙知:アメリカのビジネススクール留学中、長井英雄の一人娘