4.コンプライアンス

(常連の大森さんは取引先の倒産で落ち込んでいるばかりだった。鳶野雄二のビジネスを立ち上げるので手伝えという依頼に、俺はまずターゲティングをするという宿題を与え、やっと酒飲みの時間となったのだった)

 最初からいた50代のサラリーマンはご機嫌なまま店を出て行った。
 
 大森さんも近藤さんの慰めが効いたのか、酔いが効いたのか、いつしか釣りの話題で大将と盛り上がっている。
 
「由美ちゃんも一杯飲む?」
 
「うーん。まだ、お客さんもいるし止めておくわ。ありがとう鳶野さん」

「仕方ない、ジンと飲むしかないか」

「それが、先生に対する態度かね?鳶野君」

「なんだそりゃ。先生だと」

「起業するんだろ。それを助けられるのは俺しかいないんじゃないの?先生と呼ぶのが礼儀だよな。飲み代だけでコンサルさせようって言うんだから」

「飲み代?そんなこと言った覚えはないぞ。タダだ、タダ」

「せこいなあ。それで経営者になろうっていうのか」

「いかんぞ、ジン。経営者たるもの、自分がきっちり財布のヒモを締めておかないと将来の部下達に示しがつかない。それが、コンプライアンス教育の基本だと言っていたのもお前だろう」

「都合のいいことばかり覚えてるなあ。第一、ビジネスモデルも何もないうちから経営者面したってダメだ」

「うーん。ところで、コンプライアンスって何だっけ?」

「(。_・)ドテッ、ってなるぞ。教えてやるから、今日の飲み代と相殺ということにしろよ」

「結局、払わせる気だな。うーん、仕方ない。経営者になるための投資として、受けてやろう」

「どうも、一言多いんだよな。とりあえず契約成立ということで、コンプライアンスについて説明するか」

 近藤さんが気にしているようにこちらを振り返った。
 そして、めずらしく口を挟んできた。

「コンプライアンスといえば、普通、法令遵守といいますよね。建設業界は随分これで叩かれましたから、つい反応してしまいました。ジンさんは、経営コンサルタントでしたかね」

 いつも静かに飲んでいるイメージの近藤さんだったが、今日はいつもと違う感じだ。
 
「いえいえ。ちょっとかじっているだけで、まだまだひよっこですよ。今も製造卸の会社で営業してます。ところで、コンプライアンスなんですけど、法令遵守で、あってはいるんですけど、内容としてはもっと広いんですよ」

「それは、我が社でも言われていますよ。法令といっても、法律や業法・条例だけではなく、会社やそれぞれのルールを守るということですよね」

「そうですね。ただ、日本の社会って、昔から法律とかルールは作るけど、実際には運用重視というところがあるようなんですよね。いつだったか、ホテルが法律や条令で義務づけられている施設を一旦は設置して検査を受け、その後、別の設備にしてしまったことがありました。確かその謝罪会見で、当の社長がスピード違反と同様だというような釈明をして批判を浴びましたよね。あの感覚が割と本音じゃないでしょうか」

「そうそう。交通違反っていうのは、見つかったから運が悪いと思っている人が多いかもね。反省しているって言う人、見たことないものね」

 由美ちゃんも参戦してきた。

「そうなんだ。交通違反というものも、道路交通法違反だがら、れっきとした犯罪なんだよ。その上、その社長の感覚だと、企業として行った法律違反も、個人的な法律無視と同じにしてしまっている。企業が求められているのは、法令やルールを守ることは当然であり、それ以上に社会の要請に応えることで存在が許されていると言うことを忘れてしまったと言えるね」

「んん?ちょっと待て、ジン。法令やルールを守ることがコンプライアンスというのはわかったが、それ以上の社会の要請っていうのは何だ」

「そうだな。法律やルールが作られているということは、元々何らかの必要性があったわけだ。速度規制も、ある程度合理的に危険性を考えて作られている。でも、法律上60kmで走ってもいい道路だとしても、子供が歩いているのが見えたり、お年寄りがきょろきょろしていたら速度を落とすだろう?邪魔なんだよ、と怒鳴りながら、高速ですり抜けることは、直接法律違反ではないかもしれないけど、弱者を守るという社会的要請を無視した行為で許されないという考え方だ」

「なるほど、法律とか、文章化されたルールを守ることだけがコンプライアンスではないということか。法律に頼っているだけではダメだ、ということになるんだな」

「法律は社会の変化と必ずしも一致していないから、企業として、自社に求められているものは何なのか、それを明確にしないとコンプライアンスなんて題目だけ唱えても何にもならないということだ」

「そうなると、そのホテルの社長はどうしたらよかったのか。そうか、まずは、ごめんなさい、と謝れば良かったんだな。余計なことを言うから批判を浴びたんだ」

「まだ甘いな、雄二。会社の危機管理としては、そうだ。間違いなく、法律違反をしているのだから、100%謝罪すべきだ。ただ、問題は、自社にとっての社会的要請は何か、を再度問い直さなければいけないというところにあるんだ。さっきの例では、具体的には身障者対応の設備を取り払ってしまっているんだが、ビジネスホテルとはいえ、身障者が客としてやってくると言うことをどう考えたかが、問題だ。それを、無駄だと判断し、形だけ(検査だけ)行った。それが、胸を張ってい言えるかどうか、という眼で本気で見直さなければいけないということだ」
*(注1参照)

「ジンさん。おっしゃることがよくわかる気がします。ジンさんに、私が働いている会社を一度見て貰いたいですね。近いうちに是非お願いします」

「近藤さん。ありがたいですが、まだまだ、受け売りですから、ちょっと荷が重いですよ」

「そう言わずに。我が社も、社長が必死で変えようとしているんですが、どうも思うようにいかないんですよ。前払いの一部として、黒沢さんが秘蔵していた『天法』の純米大吟醸を飲んでください。大将、ジンさんに注いでください」

「ええ?いいんですか。天法と言えば、長野の酒ですよね。確か、静岡の磯自慢の杜氏さんを招いて造ったところでしたね」

 大将が、大事そうに注いでくれた。皆さんでどうぞという近藤さんの言葉に、雄二や由美ちゃんまで・・・
 
「うまい。すっきりとしているけど、しっかりとした味がありますね」

「コンプライアンスもいいもんだなあ。これぞ、社会的要請を明確にした酒だな、ジン」

「使った言葉を継ぎ接ぎしてるだけじゃないか。雄二の場合は、コンプライアンス以前の問題だから、教育費はかかりそうだ」

 何となく、近藤さんの申し出を受けてしまったような気がするが、爽やかな酔い心地で夜が更けていく。

(続く)

(注1)この考え方は、桐蔭横浜大学コンプライアンス研究センターの郷原信郎氏の著作「『法令遵守』が日本を滅ぼす」(新潮新書)に多大な影響を受けて、私なりの解釈で書いているものです。言葉足らずですので、後日、再度このテーマを取り上げるつもりです。

《1Point》
郷原信郎氏上記著書まえがきP7より

「~抽象的に法令遵守を宣言し、社員に厳命するだけの経営者の動機が、命令に反して社員が行った違法行為が発覚した場合の「言い訳」を用意しておくことにすぎないこと、法令遵守によって組織内には違法リスクを恐れて新たな試みを敬遠する「事なかれ主義」が蔓延し、モチベーションを低下させ、組織内に閉塞感を漂わせる結果になっていることを感じています」